初めてのワイン蔵見学2 取材報告  (by えつこ)

新潟県上越市   株式会社 岩の原葡萄園

第 10 話

 善兵衛は独学で英語やフランス語を学び、海外で出版されているぶどう栽培とワインの知識を吸収し、実践していきました。
 善兵衛は日本の風土に適したぶどうを求め、海外から直接数多くのぶどう品種を取り寄せ、試験栽培を行っていったほか、農園内への気象観測器を設置、気温・雨量などを測定し、気候とぶどう生育との関係を研究。また豪雪でのぶどうの剪定法や、佐渡の竹を使ったぶどう棚の工夫、多発する病虫害への対策を行っていきましたが、そうした善兵衛の30年以上にもおよぶ苦心と努力にもかかわらず、この地にあったぶどう品種はなかなかあらわれませんでした。
    
      高士村と善兵衛
 写真には旧高士村役場、旧高士小学校で体操をしている子供、寄贈された図書、パリを模して役場を中心 
に放射状に配置された道路地図が写っています。
 ワインづくりに生きた善兵衛には、中頸城郡高士村村長としてのもうひとつの姿がありました。明治33年(1990年)33歳で村長に就任、明治37年(1904年)に病気で辞職するまでの間、財政の安定、教育の振興、交通の確保を主眼に、新しい村づくりに積極的に取り組んでいきました。
 高士小学校の校舎建設、パリの凱旋門を中心とした道路網をモデルにした、村中央から放射状に敷かれた道路の整備など、情熱と理想をもって村政に尽くした善兵衛の素顔をそこにみることができます。
    
  日本の風土にあったワイン
   づくりをめざして1世紀
 写真には左側にぶどう酒販売開始の頃、久邇宮御一族、鳥井信治郎。右側に登美農園、農園で働く人、葡萄全書、2号石蔵の入口が写っています。

 善兵衛は、恩師として仰いだ勝海舟に、ぶどう栽培とワインづくりに取り組む決意を打ち明けたとき、海舟は「志はよいがおこも(乞食)になるなよ」と忠告したといいます。海舟は、善兵衛が事業家というよりは学者肌であることを見抜いていたのでしょう。
 明治35年(1902年)の皇太子殿下(のちの大正天皇)の葡萄園行啓をはじめとする相次ぐ皇室のご来臨、明治37年(1904年)には、勃発した日露戦争によって、岩の原葡萄園の「菊水印純粋葡萄酒」が軍に大量納入されるなど、葡萄園の経営は一時的に活況を呈したかにみえました。しかし、昭和初期の経済不況、雪害や病害によるぶどうの生産量が不安定であったこと、そして研究や山林の開拓に莫大な費用がかかったことなどから、葡萄園の経営は暗礁に乗り上げていきました。
 このときひとつの大きな出会いがありました。
 「赤玉ポートワイン」で甘味葡萄酒のブームをおこしていた寿屋の鳥井信治郎は、スペインやチリから輸入していた「赤玉」の原酒を国産化できないかどうかについて、 
醸造学の権威であった東大の坂口謹一郎博士に相談しました。
 坂口博士は「よいワインはよいぶどうから」しかつくれないと示唆し、その指導ができるのは川上善兵衛をおいて他にはない、と信治郎に告げたのです。
 信治郎はすぐさま善兵衛のもとを訪れ、ふたりはお互いの国産ワインづくりにかける情熱が同じであることを確信しました。昭和9年(1934年)寿屋との共同出資で「株式会社岩の原葡萄園」を設立、経営の立て直しが図られていきました。
 善兵衛と信治郎は、増大する「赤玉ポートワイン」の生産に対応するため、より広大なぶどう栽培に適した土地を探していました。そして坂口博士の登美農園と出会います。3人は登美の丘にワインづくりの理想郷としての可能性を見いだし、信治郎は昭和11年(1936年)に登美農園を取得。「寿屋山梨農場」として、農場長に善兵衛の娘婿川上英夫を迎え、善兵衛の指導のもとに農園の復興にあたりました。

    …第11話につづく…

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